マイペースで成長の新田恵利が客員教授に就任した理由

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 今週の所さん事件ですよの番組テーマは、世界的に深刻になっている「ミツバチ不足」と、それを解決する意外な生き物が紹介されるそうです。(たぶん、アブです…。)

 そして、今回の番組ゲストには、おニャン子クラブ会員番号4番の新田恵利さんがゲストとして登場されます。

 新田さんといえば、はるか昔に聞いた名前で、「冬のオペラグラス」という歌を謳われていた程度の記憶しか残っていませんが、なんと昨年に、大学の客員教授に就任されていることが分かりました。

 アイドル時代から、自己主張をされることなく、自然体でマイペースを貫いてこられ、当時のイケイケの芸能界では生きていけないと、一度引退を経てからも、生活のために、再び芸能界での活動を始められ、その後、マイペースを崩すことなく、現在まで芸能界で活躍され、また私生活ではお母様の自宅介護され、その経験を買われて、2023年5月に大学の客員教授に就任された道のりが気になったので、少し調べてみました。

マイペースな新田恵利

         引用:女性自身

 マイペースな性格の新田さんのご両親は、お父様が56歳で、お母様が39歳の再婚同士のカップルの子として誕生され、10歳上のお姉さま、3歳上のお兄様の下で、末っ子として育っています。

 小学生時代は、内弁慶で外では目立たない子で、将来の夢は、お嫁さんになることといういたって普通の女の子でした。

 新田さんは、おしゃれな服を着たり、海外旅行に行くことに憧れていて、その資金作りのために不二家でアルバイトをしていました。そうした中、高校2年生の頃に、クラスの男子から、オールナイトフジ女子高生スペシャルへの応募してみたらといわれ、その時の賞品がハワイ旅行と知って、芸能界に興味があった訳でのないのに、ハワイ旅行目当てに応募されました。

 結局、ハワイ旅行は国生さゆりさんに持っていかれましたが、新田さんは、オールナイトフジに数回出演され、そんな時スタッフの方から、1985年の4月からの新番組「夕やけにゃんにゃん」にアシスタントとして参加するよう誘われました。

 マイペースの新田さんは、この時、時給380円の不二家のバイトより、一回出演して5000円のテレビ出演の方が割がいいと考えて、「夕やけにゃんにゃん」へのオファーを受けられました。

 新田さんにとっては、割のいいアルバイトであった「夕やけにゃんにゃん」への出演でしたが、周囲の方は、芸能界デビューが決まっていたり、デビューを目指し芸能界で一旗揚げるために必死な子が多く、少しでもテレビに映りたいメンバーが多い中で、新田さんはスタッフの方に、番組出演も週3日のシフトにして欲しいとお願いするなど、完全にアルバイト感覚でマイペースの新田さんは、周囲のメンバーから不評を買っていたそうです。

 そんな状態から、新田さんは、自分は芸能界に向いていないと感じて、番組スタッフの方に番組を降板したいと申し出られましたが、その時にメンバーが喫煙していたことが週刊誌に掲載され、5人のメンバーが急きょ脱退する事件が起きたために、降板が許されずに、そのまま活動を続けることになりました。

 当時、おニャン子クラブは大人気でしたが、「個人情報の保護」という概念が認知されていない社会環境の中、電話帳に人々の名前と住所が載っている時代だったことから、当然新田さんのご実家の住所もファンの知るところとなり、新田さんのご実家では、傘や植木鉢、表札などが盗まれることは日常茶飯事となりました。

 また、ストーカー化したファンの車にお母様がひかれてしまう事故も起きたり、ファンに自分の部屋を荒らされるなどの被害に遭ったのですが、当時は「ストーカー規制法」は出来ておらず、警察からも、一連の被害も「有名人にかかる有名税」だと適当にあしらわれたために、マイペースの新田さんも、さすがに一時期は人間不信になったそうです。

 アルバイト感覚の仕事といえど、新田さんは1986年の1月に「冬のオペラグラス」でソロデビューされますが、これにも後日談があり、実は、その前にもソロデビューの話があったのですが、マイペースの新田さんは、メンバー内で目立った動きをあまりしたくないと考えて、それを断っていたので、本来なら「冬のオペラグラス」は、セカンドシングル曲のようです。

 高校卒業して半年後に、新田さんはおニャン子クラブを卒業されました。

 当時の芸能界では、女優になるなら「裸になる覚悟がいる」といわれていたので、新田さんはそんな覚悟もなくて女優を目指す道は除外され、バラドルになるにも、当時山瀬まみさんや井森美幸さんが全盛期で、自分はそれほど面白くないので無理だと考えて、結局芸能界を引退される決心をされました。

 通算22歳から25歳までの3年間は、芸能界の表舞台から離れ、テレビガイドで小説を書いたり、東洋経済のインタビュー記事を書いたりして、生業を作詞やライターにしたのですが、結局それではご飯が食べられないと悟り、芸能界復帰をされています。

 ただ、当時のアイドルの寿命は20歳までで、25歳で芸能界にカムバックした新田さんに来る仕事の内容は、暴露本の出版かヘアヌードばかりで閉口されました。そして、結局マイペースの新田さんが選んだ仕事は、他の芸能人ともかかわりが薄く、スタジオ出演もしなくてよい、泊りがけの旅番組の出演でした。

 新田さんは、29歳で、テレ義業界の方と結婚されています。初デートの時から、ご主人から結婚してほしいと毎日アピールを受け続けた新田さんは、「私と結婚したら、母と犬がついてくるけど…。もう一軒家を建ててほしい。」と条件を出したところ、ご主人がOKしたことで、ゴールインされたそうです。後に、ご主人は二世帯住宅を建てて、新田さんのお母様との同居の約束を果たしてくださいました。 

客員教授に就任した理由(背景)

 2002年頃から新田さん夫婦は、神奈川県逗子市の二世帯住宅でお母様との同居を始め、相変わらずマイペースの新田さんは、逗子や近隣の鎌倉市を案内するテレビ番組の企画にも出演するようになられました。

 同居していたお母様は、高齢のために、時折圧迫骨折等で入院されたりしていたそうですが、治療後は元気でお暮しでした。

 こうした中、2014年に骨折された際には、お母様のご様子がそれまでと違い、強い痛みのために自ら入院を希望されたそうです。それまで普通に生活されていたお母様は、二週間の入院後、退院した時も、自立が出来ない状態で、その日から突然に自宅介護の生活がスタートしました。

 また、そんなお母様の介護のために、独身だった新田さんのお兄様が、お母さんの居住スペースに同居するために引っ越してこられて、お兄様と新田さんの自宅介護の生活が始まりました。

 飲食店勤務のお兄様が、夕方までお母様の介護を担当し、夕方から新田さんにバトンタッチする介護生活の中で、新田さんは、介護のノウハウを医療従事者の方々から学んでいかれました。

 マイペースの新田さん流の自宅介護に伴うストレス発散方式は「言いふらし介護」だそうです。

 自分の状況を「自宅介護するようになって大変なので、だから助けてね」と素直に声に出すことで心が落ち着くそうです。

 とはいえ、自宅介護を始めて2年間は、こんな生活がいつまでつつくのかと思って辛くなったり、親子喧嘩してイライラする日もあったそうですが、3年目以降になると、そんな生活が日常の当たり前の出来事に思えてきて、それまでは「母親のための介護」だと思っていた自分が、次第に「自分が後悔しないための介護」になって、そういう気持ちを人に話している自分の心境の変化に自分自身が驚いたりされました。

 そのように、新田さんの心の変化は、お母様にも伝わったようで、以降は穏やかな介護生活が続いたそうです。そんなある日、新田さんはお母様とお二人で「死に装束」を取り上げたテレビ番組をご覧になっている時に、新田さんがお母様にご希望の死に装束をお尋ねになったところ、お母様はウエディングトレスを着たいとお答えになりました。

 そして、洋裁の得意な新田さんは、お母様のために、ウエディングドレスならぬエンディングドレスを仕立てられたのですが、最後の仕上げをするとお母様が亡くなる気がして、どうしても仕上げが出来なかったそうです。そして、お母様が亡くなられてから、最後にミシンを踏んでエンディングドレスを仕上げて、お母様に着せて差し上げました。お母様は享年92歳のご長寿でした。

 こうして、2021年3月23日に、6年半に及ぶ新田さんの自宅介護は終わりを迎えたのです。 

 

 新田さんとお母様は、延命治療を行わず、できるだけお母様の希望に沿ってご自宅で最期を迎えるように介護を続けられたそうです。生前、お母様は、介護をしたお兄様と新田さんに、「お兄ちゃんと恵利ちゃんには世話になったから、ちゃんと「ありがとぉ」って言って死ぬからね」と話されていたそうですが、最期の日の午前中、お母様は突然、何かを伝えようと口を開けたそうです。新田さんにはそれは「あ」や「お」と言おうとしている口の動き方に見えました。おそらく、最期を悟ったお母様が、約束通りに、必死でお二人に「ありがとう」と伝えようとしたのでしょう。

 そのような、心に熱いものがこみあげてくる最期を迎えた自宅介護の様子を、新田さんはその年、主婦の友社から「悔いなし介護」を出版されています。

 おそらく、その行為は、マイペースの新田さん流の自宅介護に伴うストレス発散方式の「言いふらし介護」の総仕上げだったのではないでしょうか。

 そんなマイペースな新田さんの自宅介護生活と、それを綴った本の出版がご縁で、新田さんは2023年、淑徳大学総合福祉学部の客員教授に就任され、年に5回程度、福祉学部の学生にご自身の体験に基づいた介護の講義をされています。 

まとめ

 懸賞のハワイ旅行に行きたくて、オールナイトフジのオーデションに参加された新田恵利さん。

 時給380円の不二家のバイトより割がいいと考えて夕やけにゃんにゃんに出演されていたために、芸能界での活躍を夢見る他のメンバーから快く思われなかった新田理恵さん。

 目立つことが嫌で、一度は歌手のソロデビューを断ってしまった新田理恵さん。

 おニャン子クラブ卒業後に、裸になる決心が出来ず女優を目指すこともなく、山瀬まみさんや井森美幸さんのように面白くないと思い、バラドルの道もあきらめて芸能界を引退した新田理恵さん。

 引退後、作詞やライターを生業にしたものの、思うような収入が得られず、3年後に芸能界復帰をした新田理恵さん。

 復帰後も、暴露本出版やヌードのオファーばかりが続く中、他の芸能人との接触もなく、番組スタジオにも行かなくてよい、旅行番組の仕事を見出して、地味に芸能活動への復帰を果たした新田恵利さん。

 同居のお母様の骨折を機に、突然始まった自宅介護生活に2年間苦しみながらも、3年目には、「母のための介護」でなく「自分が後悔しないための介護」に目覚めた新田恵利さん。

 介護のストレス発散のために「言いふらし介護」を続け、最後の仕上げに、6年半に及ぶ新田さんの自宅介護の記録を「悔いなし介護」として出版された新田恵利さん。

 そして、その介護の経験を買われて、淑徳大学総合福祉学部の客員教授に就任さた新田恵利さん。

 常にマイペースに過ごされてきた新田恵利さんですが、常にその時その時を真剣に過ごされてきた結果、元アイドルが大学の客員教授に就任されることになりました。

 自宅介護の経験をお持ちの方ならよくお分かりだと思いますが、自宅介護は、介護される方以上に介護する側のメンタルの維持が大変な作業になります。

 その時その時に無理をせず、マイペースでありながらも真剣に人生と向き合ってこられた新田恵利さんだからこそ、大学の客員教授に迎えられたのだと、その理由がはっきりと分かった納得の今回の調査結果でした。 

 これからも、新田さんには、マイペースでご活躍されることをお祈りいたします。 

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