こんにちは、ビタミンです。
読売新聞オンラインに、『街の裸婦像は時代にそぐわない?撤去の動き、各地で…、小学生「見ていて恥ずかしくなる」』との記事が掲載されていました。
そういわれてみれば、街中の公園や公共施設にも、ブロンズや石膏の裸婦像って結構ありますよね。
まじまじと見つめる訳にもいかず、かといって有って困る訳でもなく、街の景色の一部として認識していましたが、最近は、その存在について撤去すべきかどうかが話題になっています。
街中の裸婦像について、一律に良いとか悪いとかいうのは乱暴な議論なので、今回は、個別の裸婦像の適正について、どんな点に注意して議論すべきなのかを調べてみました。
皆さんの街の裸婦像の撤去問題について、皆と一味違う大人の議論が出来ますように、興味ある方は最後までご覧ください。
それでは、早速見ていきましょう。
裸婦像鑑賞のポイント
裸婦像を鑑賞する際のポイントは3つあります。
時代背景と作者の意図を読み解く
鑑賞のポイントその一は、 時代背景と作者の意図を読み解くことです。
その裸婦像が制作された時代背景を知り、その中で作者がその作品で何を表現したかったのかを調べることが大切です。
ヨーロッパのルネッサンス期の裸婦像は、神話や宗教的なテーマをモチーフにしていることが多いです。
ご存じのとおり、ルネサンス期とは、ヨーロッパが中世から近代へと移行する時代で、特に、古代ギリシャやローマの文化を復興させようとする動きが特徴とされているため、この時代に、ギリシャ神話に関する作品がつくられた理由が納得できますよね。
あなたの街の裸婦像は、どんな方が、どのような時代背景の中、どんな意図をもって裸婦像を製作したのか調べてみると面白いですよ。
身体の描写、裸婦のポーズと表情を観察する
裸婦像といっても、その身体の描写については、写実的な描写、抽象化した描写、または、ルネサンス期の作品のように、理想的なプロポーションや均整の取れた描写の3種類があります。
また、ポージングや表情からも、作者の作製意図や主張が伝わってくるものですね。
作品全体の印象と解釈
裸婦像から受ける全体的な印象や感情は、個人個人で異なると思いますが、作品全体から受ける主観的な印象も大切な議論のポイントです。
作者の意図やテーマを理解した上で、自分の主観的な印象とをすり合わせることで、作品に対する自分自身の解釈が出来上がります。
上記の2つのポイントは、どちらかといえば知識的な視点での鑑賞方法ですが、この3つ目のポイントは、理屈を超えた感受性によるものです。
以上、3つのポイントから、作品を鑑賞するとよいでしょう。
設置した意味の把握
日本に伝わる歴史ある彫刻は、専ら仏像や、天皇・公家・武士・僧侶といった人物の木工作品が主流で、奈良の大仏や鎌倉の大仏のような物には鋳造された作品もありますが、裸婦像が制作され、街中に設置されるような文化はありませんでした。
海外の観光地では、地元の英雄の銅像が多く見られますが、日本でも、第二次世界大戦までは、同じような地元の名士や軍人等の銅像があったようですが、戦時中の金属供出により、大半の銅像は溶かされて、戦闘機や、鉄砲の玉になったそうです。
裸婦像が、芸術的に優れたもので、その作品全体の印象が、設置場所との関係において、何かモニュメント的な意味が感じられるものであれば、作品への解釈が容易になるのでしょうが、それでも、街中で裸婦像をまじまじと鑑賞するのは、通常の男性であれば違和感を覚える可能性が高いと思われます。
その作品が美術館や博物館等に設置されていれば、例え裸婦像であっても、まじまじと見つめる行為に「芸術を鑑賞する」というお墨付きが与えられたようでいいと思うのは、私だけの印象でしょうか?
例えば、小学生の子どもに「どうして、ここに裸の人の像があるの?」と尋ねられた時に、子どもでも納得できるような説明が出来るかどうかがポイントだと思います。
特定の一部の方だけでなく、子どもを含めた一般の方が、誰でもそこに裸婦像が設置されている理由が分かることが大切なのではないでしょうか?
まとめ:個別の議論について
最近、街中に設置されている裸婦像について、その設置の適否が問題となり、一部に撤去する動きがあるようです。
裸婦像を撤去すべきか、存続させるべきかの意見の分かれるところですが、議論の前提として大切なことは、裸婦像自体は、芸術作品として尊重されるべきで、悪でも善でもないということです。
設置が問題となる理由は、「なぜ、そこに、その裸婦像を設置する理由があるのか?」という問いに、明確な回答が得にくいことでしょう。
一概に、裸婦像を否定したり、肯定するといった乱暴な議論は大人げないのでこの際辞めておいて、仮にあなたの街の裸婦像について議論するならば、まずは、客観的要素の
- 裸婦像が制作された時代背景と作者の意図を読み解き、作品の意義を考察する
- 身体の描写、裸婦のポーズと表情を観察し、作品の意味を考察する
の2点から考察し、その上で、個々で異なる主観的な要素になる
- 作品全体の印象と解釈
について議論し、その結果を踏まえて、その裸婦像がその場所に設置された目的・意義を明らかにしていくことが、建設的な議論を戦わせる手順になると思います。
なぜ、そこに、その裸婦像が必要なのか…。
案外、当時の首長さんや、担当者の方の個人的な知り合いの方の作品が設置されている場合や、本来、公衆の面前で、人目をはばかりながら鑑賞すべきものではなく、美術館の中で、芸術作品としてじっくりと鑑賞すべき立派な作品を、意味もなく設置していることも多いのではないでしょうか?
冒頭で紹介した読売新聞オンラインの記事見出しは、
- 街の裸婦像は時代にそぐわない?撤去の動き、各地で…、小学生「見ていて恥ずかしくなる」
でしたが、小学生でなくても、見ていて恥ずかしくなるような裸婦像が街中に設定されていることに、文字通り見て見ぬふりをすることなく、その裸婦像の設置意義、設置目的について、そろそろ議論を始めてはいいのではないでしょうか?
最終的には、個人的主観による印象が大切なのですが、その前に、客観的要素もしっかりと調べて、議論の土台として相互の共通認識を構築することが大切ですね。
お互いの意見を尊重しつつ、楽しい議論を行ってください。
そして、小学生に、「こうこういう理由で、この裸婦像は、ここに設置されているんだよ…」と語れる大人になれるよう頑張りましょう。
裸婦像ごときで、地元の住民同士が険悪になることがないよう、明るく建設的な議論で、素敵な街づくりに貢献しましょう。
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